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レコレコ「コラムと書評」

vol.5. 2003/3-4, pp.98-101.

 

橋本努(北海道大学大学院経済学研究科助教授・経済思想)

 

組織的な悪を読み解くための10

 

ミニコラム(600)「自らの悪を組織的に吐き出すな」

 

アルカイダに代表される今日のテロリズムは、国家や全体主義に基づくテロルとは対極にあるだろう。九月十一日のテロ事件が少数精鋭の確信犯によってなされたとすれば、ユダヤ人の大量虐殺は、ナチスという行政機構の中で組織的に行なわれた。彼らは、公的業務の遂行を日常の道徳意識から明確に区別し、もっぱら組織の歯車として働いた。そしてユダヤ人の虐殺においてもまた、「自らの意向ではなく職務がそうさせた」という無責任な感覚を抱いていたのであった。彼らは、生来邪悪であるとか忠誠心が行きすぎたというのではなく、アーレントに従えば、まさに全体主義の行政機構が、人間を「群集(畜群)」へと変容させてしまったのである。

人は肥大化する行政機構のなかで、倫理的な倒錯を経験するものだ。もはや政治的判断力を育むことなく、その公的責任能力を低下させてしまった国民は、愛国心の名の下に、いとも簡単に組織的な悪を生みだすことができる。そうした状況は、今日のアメリカ社会にも当てはまるだろう。アメリカのイラクに対する軍事的圧力は、人々の鼓舞された忠誠心を味方につけて、その背後で各自の悪徳を戦争へ動員するという過程に他ならない。だが私たちが全体主義の経験から学ぶべき教訓は、「自らの悪徳を組織的に吐き出してはならない」という格率ではなかったか。私的領域への撤退が転じて愛国心に向かうとき、その政治的悪用が始まるのである。

 

 

 

書評10

[1]

柏木博著『モダンデザイン批判』岩波書店2002

 

 ポスト・モダニズムによるモダンデザイン批判には限界がある。例えば、バウハウスのようなデザイン運動の中には、データの集積を自在に自己組織化し、多様なデザインを生み出していくような無限の可能性があって、ボルツによればその可能性こそが、現代のハイパーメディアを切り開いたのだという。逆にポストモダニストたちは、近代の困難や問題を真剣に受け止めなかったがゆえに、そのポテンシャルを失いつつあるというのが著者の診断だ。新たなデザイン論の可能性は、ルウェーブルの『空間と政治』のような、都市に定位する七〇年型の近代批判にある。それは、飼いならされた日常生活に対する批判の営みとして、都市を自在に読み込んでいく批評の実践にあるのだろう。

 

1.満足度 3

2.本のリンク  スローターダイク著『「人間園」の規則』御茶の水書房

 

 

 

[2]

川上卓也『貧乏神髄』WAVE出版2002

 

 弱冠二七歳の青年が、自らをリストラした後に田舎に移り住んだ。極端に貧乏な生活だが、しかしまったく貧乏臭さを感じさせない典雅な日々。その生活を綴った本書は、まさに一億総貧乏時代の指南書と呼ぶに相応しいだろう。とりわけ第四章の「貧乏礼賛」は、中流意識をもった消費人間たちがいかに貧乏臭くて没個性的であるかを痛快に批判する。バイトで稼いだ金を携帯電話の通話料のために吸い取られるというのは、なんとも悲しくないか。消費社会の中で消費されてしまうのではなく、貧乏の中で自由な思考力と創造力を養うことこそ、真の個性であり、生ける輝きであるという。また本書に織り込まれたエッセイ「彩」時記は、季節に対する感受性に溢れた名文だ。バイトしている学生諸君、ぜひ本書を手にとってほしい。

 

1.満足度 5

2.本のリンク  ソーロー『森の生活』岩波文庫

 

 

 

[3]

タルコット・パーソンズ著、徳安彰/油井清光ほか訳『宗教の社会学 行為理論と人間の条件第三部』勁草書房2002

 

 後期パーソンズの代表作『行為理論と人間の条件』の第三部は、キリスト教の歴史、デュルケーム宗教論の再訪、医療倫理と死の実存的問題、および脱工業社会アメリカの宗教、といったテーマからなる論文集。とりわけプロテスタンティズムに対する評価が興味深い。公民権運動を経たアメリカ社会において、プロテスタンティズムの倫理は、予定説神学を破棄して、キリスト教徒以外の市民を包摂するような制度化へと向かっているという。制度化を否定するカウンター・カルチャーは愛を理念とする初期キリスト教に類似するが、パーソンズはこれをプロテスタンティズムと節合する可能性を探る。完全な世俗化ではなく、宗教による世俗社会の包摂を展望するのである。なお、同時に約された第四部『人間の条件パラダイム』は理論的な総括であり、こちらも重要書だ。

 

1.満足度 4

2.本のリンク

 

 

 

[4]

ロバート・S・リトワク著、佐々木洋訳『アメリカ「ならず者国家」戦略』窓社2002

 

 冷戦後ますます複雑化する国際関係に見通しを与えるべく、アメリカはその政策理念として、クリントン政権のときから「ならず者国家」を認定してきた。イラン、イラク、リビア、北朝鮮、それにキューバである。テロ事件後のブッシュ政権は「悪の枢軸」を三か国に絞り込んだが、認定の恣意性は以前から変わらない。中国やシリアはなぜこれに含まれないのか。それは、アメリカの政治的えこひいきに基づくのであって、分析的に一貫した判断基準によるのではない。そもそも「ならず者」とは、アメリカ政治に独特な概念であって、国際的な承認を得られない言葉だ。現在、アメリカの外交政策は戦略的柔軟さを失い、地域研究の専門性を見失っている。他国に烙印を押して暴走するアメリカ外交。これを防ぐのはいったい誰なのか。

 

1.満足度 4

 

 

[5]

仲正昌樹著『法の共同体 ポスト・カント主義的「自由」をめぐって』御茶の水書房2002

 

 カント的自由の理念を受け入れながらその限界状況に身をおくコーネルの哲学をベースに、ポスト・モダン左翼の可能性を探る。憲法を共有する共同体のあり方に対する嫌疑を抵抗の出発点とし、アーレントのカント読解(判断力概念の評価)からコーネルのアーレント読解(公共性の再舞台化)を経て、最後にコーネルのジェンダー論を丹念に紹介する。抑圧されたアイデンティティという私的問題を公的次元へ投企する際に、望ましいペルソナを各自が自由に追求するよう促すべきだとするコーネルは、従来のフェミニズムが想定する「男性支配」概念を用いずに、国家の外部で可能な実践(ポルノ・ワーカーたちの自己組合化など)に期待を寄せる。それは同時に、法の働きを限定する脱構築の正義でもあるというわけだ。

 

1.満足度 4

 

 

[6]

ハンナ・アーレント著、斎藤純一/山田正行/矢野久美子訳『アーレント政治思想集成1・2』みすず書房2002

 

 膨大なアーレント文書の中から編まれた珠玉のエッセイ集。若い頃に「哲学の衝撃」を受け、大人になって「リアリティの衝撃」を受けたアーレントは、全体主義という組織的な罪に対処するための思想を全力で追究する。マルクス主義やカトリックのように歴史の終わり=目的を目指すのではなく、また実存主義や歴史主義や科学主義などの知見にも惑わされず、つねに現実を厳しく見つめなおすその屹立した精神によって、あらたな公共性の哲学を構想する。社会学の限界から社会の理解を目指すという緊張感あふれた彼女の思考は、本書においても細部にわたって現われる。個人的事柄を語ったインタビュー、カフカ論、女性問題に触れた唯一のエッセイ、寓話ハイデガー狐、なども興味深い。すぐれた翻訳に支えられた豊穣な思想書だ。

 

1.満足度 5

 

 

 

[7]

堀尾輝久『いま、教育基本法を読む 歴史・争点・再発見』岩波書店2002

 

 二〇〇〇年三月に発足した教育改革国民会議の最終答申を受けて、文部省は現在、教育基本法の改正問題に取り組んでいる。財界や政治家を代表とする改正派は、いわゆる新自由主義の立場に立つ。すなわちそれは、一方では教育行政への市場原理の導入を目指す自由主義によって、他方では天皇忠誠型の復古的愛国心を持ち出す保守主義によって、民営化のなかで国民精神を引き出すような教育を目指している。これに真っ向から批判を挑む著者は、本書の中で戦後の教育法論議を丁寧に紹介しつつ、国際人権思想の発展を踏まえて平和・人権・民主主義の理念を訴える。そもそも公教育は、国際社会を展望せずに、国家に対する忠誠心のみを鼓舞してよいのか。現代の教育改革に一石を投じた本書によって、活発な論議が起こることを期待したい。

 

1.満足度 4

 

 

 

[8]

吉原直樹『都市とモダニティの理論』東京大学出版会2002

 

 経済成長が停滞気味の現代社会にあって、個人消費よりも都市デザインに不満を感じるのは私だけであろうか。すぐれた都市空間に住まうことの豊かさを考えるために、都市論の現在を駆け抜けるように紹介した本書を手にしてみた。とくに60年代以降のルフェーブルや80年代以降のハーヴェイに関する紹介が啓発的であった。同質的な近代的空間を批判する観点は、資本のグローバルな移動が個別の空間を多様化・重層化するという現実の中にある。抽象的で文脈破壊的な資本移動(フロー)が多様な場所性(ストック)を豊かにするという逆説から、私たちは国家を越境するような分散ネットワーク型の活動に、新たな希望を寄せることができるであろう。しかし都市デザインは依然としてモダンのままではないか、という疑問は依然として残る。

 

1.満足度 3

 

 

 

[9]

デイヴィッド・ライアン著、河村一郎訳『監視社会』青土社2002

 

 職場や街路が24時間体制で監視カメラに撮影されたり、病院・学校・警察・役所が市民のデータを共有して問題解決に当たったり、クレジットの使用状況によって消費広告が届いたりする社会。私たちは今や、ベンサムのいうパノプティコン型の規律訓練社会ではなく、大量のデータを多様な監視ネットワークの中でやり取りするという、フレクシブルで脆い社会を生きている。人間を主体化するミクロな権力ではなく、人をたんにデータベース上の類型として扱う現行の監視網は、生身の個人間に築かれるべき親密圏を侵食している。人々の「意味づけと欲望のコード」を情報テクノロジーによって誘導する管理者たちの意志に抗するために、著者は単なるプライバシー政策以上のもの、例えば「親密な他者への配慮」を理念として、新たなリスク管理を模索する。

 

1.満足度 4

2.本のリンク

 

 

 

[10]

テオドア・アドルノ著、渡辺裕編、村田公一/舩木篤也/吉田寛訳『音楽・メディア論集』平凡社2002

 

 二〇年代から三〇年代にかけて数多くの音楽雑誌に寄稿し、また一時期ウィーンの前衛音楽誌『アンブルッフ』の編集長を務めた哲学者アドルノ。彼の音楽論を知るためには、本書に収録された「音楽の社会的状況によせて」(1932)を最初に読むのがおすすめだ。アドルノ自身、自らの音楽社会学研究はすべてこれを受け継いだものだと述べており、かなり密度の濃い、しかも完成された省察を展開している。シェーンベルクの現代音楽をマルクス的な階級理論の観点から高く評価し、ストラヴィンスキーやヴァイルやヒンデミットは弁証法的な精神に欠けると手厳しい。資本主義におけるブルジョア的な趣味音楽に抗して、前衛音楽にこそ未来社会の可能性を見出すその感性は、成熟した現代資本主義社会においてもなおその批判的意義を失っていない。

 

1.満足度 4